昭和五十七年八月二十七日朝の御理解


 御理解 第三十二節
女が菜園に出て菜を抜く時に、地を拝んで抜くというような心になれば、お      かげがある。また、それを煮て食べる時、神様いただきますというような心あらば、あたることなし。


信心をさせて頂く者の、基本姿勢といったようなものだと思いますね。例えば、お食事 をする時に頂きますぐらいは、信心があってもなかっても申しますね。けれども、その食物が食膳に上がるまでの事に対して、心を深く感謝する人は少ない、ね。
煮て食する時には神様頂きますと、まあ言いますけれどもそれとても、やはり本当に神 様頂きますという心あらばあたる事がないと仰せられる程しの頂き方というか、それがお互いの信心の、ま、度合いを知る。本当の基本が出来ておるかどうかという事にもつながってくると思うですね。
ましてや、ね、女が菜園に出て大地を拝むような心というね、もう一つ向こうの天地の 親神様の御恩恵、天地の親神様のお働きに対してね、大地を拝むという心あればおかげがあると仰せられる。
これは、お野菜の事だけでは、魚一匹でもそうですね。天地の親神様がね、いわば漁師 やら魚屋さんやら、または仲買の方達の手数料こそ入っておれね、天地は一つもそれに対して求めてはおられないね。も、いくらで買ったからというようなね、も、それで、ま、当たり前のように思っておるけれども、その一匹というか一切れの魚が食膳にのぼるまでにいろいろ神様の御恩恵、おかげを受けてからの事でありますから本当に神様頂きます、という心というものを心から感謝する、心から頂きますが言える。そういうおかげを頂いて当たることなし、またはおかげがあると断言しておられるのですがね。その辺のところを、ま、私共が深く自分の心の中に頂かなきゃならんと思います。
昨日、夕食の時に若先生が親子で一緒にやってまいりましてから、お食事をさして頂い たんですけれども、今日は台風が来る、ということですね。随分大型の台風十三号ですかね。ま、何かテレビか本かで見たのでしょう。あのう大きな台風なんかというのは、人間が一番油断しておる時に来るんだといったような事を、ま、何かで見たとか言ってました。土曜とか日曜なんかが、そして多いと言うような事も言ってました。
結局、ま、油断ですね。私共が、ウッカリしておる、ね。充実した信心の喜びというも のがね、欠げておる時ですね。頂きますと言っておっても、その頂きますがただ神様に、いや信心のない者でも言う頂きますになってしまってはいないか。本当に、女が菜園に出て大地を拝むような心と、この心が欠げておるのじゃないかと思います。
例えば、なら台風でもそうです。神様頂きますという心あらば当たる事はない、とおし ゃいますから、さあ困った事じゃあるというようなだけじゃなくてね、そういう働きもです頂きますという心あらばおかげがあるとおしゃるのだからね。これは、食べ物だけの事ではない。それを、本当にまともから頂きますと合掌して受ける心、そこにおかげがあるという事に、ま、なるのじゃないでしょうか。
私共がウカツにね、それこそ大根一本でもね、もう自分が植えて自分が作ったっじゃか ら大根一本引いてこいといったぐらいな事ではないだろうか。一本の大根が出来るまでには、天地の親神様のさまざまなお働きを頂いてその事をね、その事を心の中にやっぱり描きながら思う事は、やはり油断があってはならぬ、というふうに思いますね。油断の時に虚を衝かれる。そおに、なら、大被害とか大損害という事になったり、身体を壊したりといったような事にもなりかねないのです。ね
まず、いわば大地を拝むという基本姿勢ですね。そして、いうならば頂きますというそ の内容にはね、神様がそれに対してね、それこそ無条件でお与え下さってあるのですからいかにもこの野菜が高かった、この魚がどうと、こういう前にね、それは確かに、いくらいくらで買った事になりましょうけれども、それはね、お百姓さんが野菜を作るその手数料であったりね。魚屋さんの問屋さんの手数料であったり、漁師さんの手数料であるのであってね、根本のところは神様の条件というものはないのですから、そこのところをもう一つ深めて神様頂きますの前にね、大地を拝む心というのがいるのじゃないでしょうか。お道の信心は、この大地を拝むというところから頂きますという事になってこなければならんと思うんですね。
油断があると、ただ頂きますでも、いわば、ただ、いただきまあすだけになってしまっ ておっては、やはり心に油断ができる。そういう時に、食べ過ぎたの、ね、何々があったの、という事になりかねません。ね。大地を拝む心、私は素晴らしい事だと思います。ねこの魚がね、人間の食膳にのぼるまでの天地の親神様のお働きに対してね、御礼を言う 心。結局、有難いというものが深められる、喜びが深められる。有難いが、本当の意味においての有難さというものを噛み締めながらの、ま、例えば食事であったり致しましたらね、いわゆるしみじみした有難さも、また与えられると思います。
本当に、ただ「いただきまあす」実にウカツである。まあ、それはどうかわかりません けれども、土曜やら日曜、人間がウカツにしている時に台風が多いというふうに、昨日、ま、聞きましたけれどもね。成程、そうかも分かりません。私共が、いうならば油断のない日々でありたい。それには頂きますという前にね、大地を拝むというものが身に付いてこなければならんと思うですね。                                                           「どうぞ」